江戸時代と明治時代の東京の都市計画


私は、大学でアジアやアフリカの都市開発を勉強している。具体的に都市の経済、政治、歴史、建築、環境などいろいろな面を総合的に勉強している。特にアフリカ、ラテンアメリカ、そしてアジアの新興国の都市開発によってこれから起きる政治や経済の変化がどのように世界に影響をするのかに興味をもっている。しかし、うまれも育ちも東京であるのに、多くの新興国の都市の歴史のみに詳しいのはおかしいのではないのか。こういった疑問から今回江戸時代と明治時代にかけて行われた東京の都市計画の歴史について書くことにした。
 江戸時代の頃から、東京(その頃は江戸と呼ばれていた)が急に世界で最も人口が多いの大都市の一つになった。人口も急に増え、ゆくゆくは世界で一番の人口を持つ都市となる。この現象を分析したい。また、明治時代後の東京の震災がどのように都市作りに影響したのかにも興味がある。江戸時代、明治時代の東京の都市としての成長を理解する事によって、東京がどの様に世界的な都市として成長したか、また、東京がどの様に日本の成長を前進させたのかわかるだろう。
 専門家によると江戸時代の時に多くの人口が支えられるようなインフラ整備が出来上がったのは徳川幕府の参勤交代令と東海道線のおかげだという。1603年に江戸幕府が始まり、江戸が日本の新軍事首都となった。徳川幕府の江戸は封建制であり、各地の大名らは一年間の間、最低半年は江戸で人質になった。そのため半年に一回は大名らが江戸に集まる必要があり、参勤交代令という法律が成り立った。この法によって大名らが豊富にならず、徳川幕府を続けるのが狙いだった。なぜなら大名らが江戸へ向かうさいに莫大の費用が掛かるからだ。実は大名らが江戸へ向かう際、最もよく使われていたのが東海道線だという。東京と関東を繋ぐ道路で今でも新幹線などが通っている道路だ。この東海道線に沿って東京のインフラ整備が成立したと思う。まず、東京への道通りに橋などが多く建てられた。また、橋の近くにはいわゆる関門みたいなものがあり、正式な出国審査のような物が行われていた。この関門の周りには新しい事業うまれ始めた。大名らやその使用人などは、江戸への旅の途中に関門の周りにある宿や飯店また売春宿を多く訪れていた。参勤交代令のおかげで東海道線のインフラ整備が充実し、江戸時代後、のち人々の上京がより簡単になったと思う。

 また、江戸時代につくられた士農工商と、江戸内の下町と山手の分かれも東京の都市としての構成に大きく影響した。山手は江戸の西の方で、江戸内では少し標高が高い方にある。山手辺りは将軍や大名などが住んでいた場所であり、将軍や大名などはとても大きな土地を持っていた。下町は江戸の東側にあり、職人や商人が多く、とても混んでいた。下町は標高が少し低く風のあたりが強ため、混み合ってた職人などの家は、地震の際に火事が山手より広がりやすかった。なので山手と下町の上下貧富の差は明らかにひどかった。木材で作られていた家が混み合った状態の下町では、やはり火事が起こりやすく、すぐに街が破壊されやすかった。標高や風を全く検討していない都市の構成であり、江戸時代には都市計画の意識がすくなかった事が明らかだ。しかし、江戸時代から火事が下町で多かった為、再建は予見されされ始めた。この頃から再建の予見、予想がのちに明治時代の時の都市計画の芯となったと思われる。

 明治時代は江戸時代後の1868年に始まり、東京の公式的な都市計画がこの頃から始まった。明治時代が始まる際に江戸の都市としての変化が大きく二つ起こった。一つ目は「江戸」という名前が「東京」に変わった。二つ目は江戸時代の三百年の鎖国が終わった事で、東京の西洋の再建の方針が取り入れ始めた。例えば、江戸時代から問題であった東京の震災への対応が、西洋の都市計画の影響によって正式に始まった。特に1923年の関東大震災の際、東京の43%と横浜の90%が全焼し、この震災を機会に東京の再設計と再構築が始まった。日本から欧米などへ建築を習いに行く人が増え、欧米の建築家などと共に欧米の建築や都市計画の要素を東京に取り入れる事が始まった。ここで大事なのは欧米の都市と東京の計画の仕方の違いだ。欧米の都市では都市をより美しくする為に都市計画を用いる事が多かったが、東京では震災のリスクを小減する為のみに都市計画を使い、東京をより美しくする方針はなかった。


 明治時代の都市計画に欠かせないのが後藤新平の存在である。彼は政治家であり、震災を機に東京の都市としての改善も自ら手がけた。まずは混んでいた下町周辺に公園を増やした。公園を増やす事によって、火事の広がりを防ぐための緩衝地帯を作った。また、公園を避難所に使う事を提案した。他にも下町の混雑を緩和する為、多くの費用を新しい、より広い道路システムを作る為に使った。この様な彼の指示で始まった再構築は主に下町にある浜松町に見られる。浜松町での公園などが増え、道路などの再調整が行われていた。また、江戸時代の時の不平等な東京の土地の分布を、被害防止のため、都市計画によってより公平な土地の分布へするための方針が始まった。明治時代にはこのような政府がトップダウンのメガプロジェクトを始め、少しでも震災の再建の為に都市計画が行われ始めた。

 江戸時代と明治時代に様々な出来事が東京の都市のあり方を大きく左右したが、今にいたる東京の編成を影響したのは震災への対応の仕方だと思う。明治時代以降も震災への対応を元に都市計画が行われ続けた。東京はあまり「美しい」都市ではないと思う人が多いかもしれない。例えば東京の電力線や極点が目立ちすぎると思う人が多い。しかし、多くの都市と違い、東京のインフラが地上にあるのには理由がある事を忘れてはいけない。震災後にインフラの修理がより素早く出来るからである。東京の外見が美しくなくても、東京の編成は特別ですばらしいと思う。世界中にある大都市と比べ、東京の都市計画は震災への対応から生まれた。東京はどこの都市よりも地震や火災の対応が早く、町や都市の再構成が早いと思う。東京は美しさより機能性を重視して、作り上げられた都市である。これからも多くの人のための機能性を重視した都市計画を東京で行って欲しい。

Comments

  1. 非常に面白いテーマで、発表が楽しみです。現在の東京の礎が江戸時代と大正の震災後の都市計画の中にあること、そして震災対応に配慮された都市という面から語るのは、面白い視点だと思いました。

    一方で、太平洋戦争中の東京空襲により焼け野原となった東京の再建は、現在の東京の形に何も影響を与えていないのか?という疑問が沸きました。影響度合い(significance)としては小さいのかもしれませんが、江戸時代から現在までの時系列の中では、無視できない出来事だと思います。この点に少し触れたうえで、この発表が江戸と東京大震災の二点に注目する理由を説明すると、発表者の視点が、さらに明確になると思います。(TA 水越)

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    1. 水越さん、丁寧なコメントをありがとうございます。面白いテーマだと思って頂きとてもうれしいです。

      東京の再建に関して太平洋戦争中の東京空襲の影響はもちろんあると思います。発表前に調べる事にします。なるべくわかりやすい発表にしたいので、江戸時代の時の都市計画の方針の理由を大きく二つに分けるのはとても良い案だと思います。これから発表の準備にかけて、私の視点をもっとわかりやすくするのを心がけます。ありがとうございます。

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  2. はじめまして。ペンシルバニア州にあるハバフォード大学で教えている鈴木です。私の学生にも都市計画に興味を持っている学生が多くいます。江戸/東京の都市計画も歴史的に見ていくと興味深いですよね。機能性を重視するのも大切ですが、見事な建築が失われていくのは残念なことです。埼玉県の川越市というところに「小江戸(こえど)」という場所があります。昔からの蔵造り(くらづくり)の建物が保存されている地区です。西洋建築の建物もあります。今は少し観光化してしまいましたが、江戸時代の建築に触れることができる場所です。機会があれば、ぜひ行ってみてください。鈴木

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    1. 鈴木さん、初めまして。とても面白いコメントをありがとうございます。

      鈴木さんがおっしゃる通り、江戸時代などの見事な建築が失われるのは大変残念な事だと私も思います。これから日本に行く際に、再建された物ばかりではなく、古くから保存されている建物の勉強も行いたいと思っています。埼玉県の所沢市、飯能市などまでは行った事がありますが、川越市は残念ながらまだ行った事がありません。今度日本へ行く際、是非小江戸に行ってみたいです。ありがとうございます。

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